1997年11月24日、日本を代表する証券会社、山一證券が「自主廃業」を発表し、社会に大きな衝撃を与えた。記者会見で当時の社長が涙ながらに語った「社員は悪くありません」という言葉は、多くの国民の心に刻まれ、日本経済の歪みを象徴する事件として記憶された。山一證券の破綻は、明治期に設立されて以来、日本経済とともに歩んだ長い歴史をもつ一大企業が崩れ去る瞬間であった。この破綻の裏には、バブル経済の影響、長期的な不正会計、リスク管理の不備、そして証券業界全体に蔓延した利益至上主義があった。さらに、破綻後に待ち受けていたのは、債権者や関係者との膨大な清算作業であった。最終的に破産手続が完了するまでには約20年もの歳月がかかり、これは日本の経済史においても特筆すべき事件として語り継がれている。以下、山一證券の栄光と凋落、そしてその後の清算に至るまでの全貌を詳述し、日本企業にとっての教訓としたい。
山一證券は、1897年に大阪で設立され、日本の証券業界の草創期を支える企業の一つとして成長してきた。創業者の山崎市左衛門のもと、山一合資会社として事業をスタートさせ、戦後には「山一證券」として再出発した。日本経済が急成長した1950年代から1970年代にかけて、山一證券は「四大証券会社」の一角を占め、野村證券、大和証券、日興證券とともに日本を代表する証券会社として広く知られるようになった。戦後の復興期、日本企業が続々と株式を公開し、証券取引が活発化する中で、山一證券はその地位を不動のものとした。しかし、この成長の裏には、後に深刻な経営問題へと発展するリスクが潜んでいた。
1980年代に入り、日本経済はバブル期に突入する。株価が高騰し、不動産市場も過熱する中、山一證券もバブル経済の恩恵を受けて業績を伸ばしていく。投資信託の販売や個別株式取引の推奨など、顧客基盤を拡大することで利益を拡大させた。しかし、利益至上主義が強まる一方で、リスク管理がなおざりにされる傾向が強まっていった。この時期において、多くの証券会社が「飛ばし」という損失隠し手法を用い、山一證券もその一部を担っていた。「飛ばし」とは、損失を特定の口座に付け替えることで帳簿上から隠し、利益が安定しているように見せる不正会計手法であり、これが後に破綻の決定打となる。さらに、バブル経済の拡大に伴い、山一證券は積極的に投機的な投資を行い、短期的な利益を追求する一方でリスク管理が不十分なまま放置される状況が続いた。
1990年代初頭、日本経済はバブル崩壊に直面する。株価が急落し、不動産市場も暴落する中で、山一證券は次第に多額の損失を抱えるようになる。しかし、当時の証券業界には、政府や金融機関が企業破綻を回避するための支援を行う慣習があり、山一證券もその例に漏れず、経営の継続を図るために資金繰りを続けていた。とはいえ、積もり積もった簿外債務は深刻な水準に達しており、いずれ破綻の危機が表面化することは明らかだった。経営陣はバブル崩壊後もこの状況に手をつけることができず、山一證券の経営状態は次第に悪化していった。
1997年、ついに2600億円にも及ぶ簿外債務が表面化し、山一證券の不正会計が明るみに出る。この規模の損失隠しは日本経済に大きな衝撃を与えた。山一證券はもはや通常の営業を続けることが不可能であると判断し、同年11月24日に自主廃業を発表する。日本の戦後経済において、ここまで大規模な証券会社が経営破綻に追い込まれたのは初めてのことだった。記者会見では社長が涙を流しながら「社員は悪くありません」と述べるシーンが多くの国民に衝撃を与え、社会全体が山一證券の破綻に対する同情と不信の入り混じった反応を示した。
破綻が宣告された後、山一證券は膨大な債務整理と清算手続に入ることとなる。1999年には正式に破産が宣告され、2000年には破産手続が開始された。山一證券の破産手続は、日本国内外の多くの債権者や投資家が関与する複雑なものであった。負債総額は3兆円を超え、その整理には膨大な時間と労力が必要とされた。証券会社の破産は通常の企業破産とは異なり、多数の顧客資産や金融機関との契約が絡むため、資産の評価や債権者との調整には慎重を期す必要があった。こうした要因が重なり、清算作業は予想を超える長期化を余儀なくされたのである。
2000年から始まった清算作業は、資産の売却や債権整理の過程で多くの障害に直面した。国内外の金融機関や個人投資家への返済義務を果たすために、山一證券の残余資産の評価が行われ、順次売却が進められたが、手続は極めて煩雑であった。また、破産管財人による資産の分配と債権者との調整にも多大な時間を要した。これにより、破産手続は約20年もの歳月がかかり、2017年になってようやく完了した。これは、日本の破産法においても異例の長さであり、日本の金融史においても最長級の破産手続となった。
山一證券の破綻とその後の長期にわたる破産手続は、日本の証券業界に多くの教訓をもたらした。まず、企業経営においてリスク管理と透明性の重要性が改めて浮き彫りとなった。バブル経済のような景気過熱期には、企業が短期的な利益に目を奪われがちであるが、それが最終的に自社や関係者に大きな損失をもたらすことをこの事件は証明した。また、山一證券のような巨額の不正会計は、企業のガバナンスの弱さが原因であるとされ、以後、日本企業において内部統制とコンプライアンスの強化が求められるようになった。
この事件を機に、日本では企業の不正会計防止策が強化され、証券業界を中心にリスク管理の体制が見直された。また、企業破綻時の清算手続の長期化が指摘されたことで、破産法の改正により手続の迅速化が図られることとなり、日本の法制度においても重要な転換点を迎えたといえる。
(編集部 : 柴野)