
“善意の気づき促し”か、“言葉狩り”か**
日常のなかに潜む無意識の偏見──その静かな問題意識が、ネット上で思わぬ熱量を帯びている。
埼玉県が進める人権啓発キャンペーンの一環として公開された「うっかり差別発言」をテーマにしたポスターが、X(旧Twitter)上で賛否を呼んでいる。ポスターは日常会話のなかでつい口をつく表現を例に挙げ、「それ、誰かを傷つけていないか」と問いかける内容だ。
県側のねらいは明快だ。悪意でなくとも偏見は生まれ得る。だからこそ、些細な言葉に光を当てる。「気づき」の促進が目的と説明している。
一方、この“柔らかな問い”が、世の中では意外な火種となった。SNSには二つの潮流が横たわる。
支持する人々は、少数者やマイノリティへの配慮が社会に必要だと語る。
「言った側に悪気がなくても、受け手には刺さることがある」
「気づくことから共生は始まる」
こうした投稿は、人権教育の継続性を評価し、公共機関の取り組みとして意義を認めるものだ。
しかし批判の声も小さくない。
「“うっかり”まで取り締まるのか?」
「言葉を封じれば社会は萎縮する」
「行政が許容発言を線引きするのは危険だ」
表現の自由がじわじわ浸食される、との懸念である。言葉の自浄作用は文化の成熟によるべきで、行政主導は違和感だという指摘だ。
議論は政治領域にも接続する。元共産党議員・池内さおり氏の女性差別発言炎上案件が尾を引き、「無意識」か「意図的」か、その線引きをめぐる感情が今回の議論を押し広げている。
つまり、ポスターをめぐる賛否は単なるフレーズの問題ではない。価値観と自由、公共性と個人性──社会の深層にある緊張が顔を出した格好だ。
啓発を押し広げれば、傷つく人は減るかもしれない。
一方で、言葉をめぐる恐れが社会の活力に影を落とす可能性もある。
現代社会は、悪意だけを相手にしているわけではない。善意の言葉が他者に痛みを与える場面もまた、確かに存在する。その複雑さをどう受け止めるかが問われている。
SNS上では、議論が単なる対立に終わらない兆しもみられる。
「指摘文化→学びの文化へ」
「禁止ではなく気づきの共有を」
感情のぶつかり合いの先に、共生の模索を求める声がじわりと広がる。
ポスターの言葉は短い。しかし、その背後には、社会がこれから選ぶべき言葉のあり方と、どのように互いを理解し合うかという、重く長い問いが横たわる。
日常の何気ない一言。それが、社会の鏡でもあるという現実を、私たちはいま改めて見つめている。
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