「またか」――SNSには、そんな冷めた声が並んだ。
2025年4月23日、週刊文春電子版が報じた「田中圭・永野芽郁 不倫疑惑報道」。両者は即座に関係を否定したものの、ネット上では「高額慰謝料」「離婚危機」「CM降板か」といった煽情的な見出しが躍り、瞬く間に情報が拡散。あたかも事実が確定したかのように取り沙汰され、憶測が一人歩きしていった。
だが、果たしてこの手の“スキャンダル報道”に、どれほどの公益性があるのか。
まず確認しておきたいのは、報道が依拠しているのは“知人”なる匿名の話であり、現時点で確たる証拠は一切示されていない点である。対象となっているのは、確かに人気俳優であり、広告契約など多くの利害関係を伴う立場ではある。だが、それとて私生活の細部までを晒し上げ、推測を材料に糾弾してよいという免罪符にはならない。
本件が刑事事件でもなければ、公共事業に関わる不正でもない以上、報道に求められるのは“国民の知る権利”ではなく、ただの“芸能ゴシップの消費”に過ぎないのではないか。永野氏の名をタイトルに冠し、CM出演本数や“知名度の高さ”を枕詞に不倫疑惑を連日報じる意義は、一体どこにあるのか。
また、この種の報道がもたらす影響は、本人たちにとどまらない。配偶者や子ども、マネージャー、仕事関係者に至るまで波紋は広がり、“裁かれる前の私刑”とも言うべき風評リスクを生み出している。仮に法的責任が問えるとしても、それは家庭内または当事者間の問題であり、第三者が週刊誌を通じて断罪するべきものではない。
メディアはしばしば「社会の公器」を自任する。しかし、週刊誌が売れるから、PVが稼げるから、SNSがバズるから――そんな理由で個人の名誉と尊厳を切り売りするような風潮が蔓延するのであれば、それはもはや“報道”ではなく“暴露”という名の興行である。
令和の今、芸能人の不倫報道は、「ジャーナリズム」ではなく「エンタメコンテンツ」へと変質したと言って差し支えない。そして視聴者・読者もまた、その需要の共犯者となっている。誰かのプライベートを嗅ぎ回り、白か黒かを迫りながら、最終的には広告収益の糧として消費してしまうこの構造に、警鐘を鳴らすメディアはほとんど見当たらない。
今回の「永野芽郁不倫疑惑報道」――果たしてこれが“必要な報道”であったか否か。静かに問うべきは、我々自身の視線でもある。芸能人のスキャンダルを追いかける手に、ジャーナリズムの矜持は宿っているのか。報道の名を借りた“興味本位のリンチ”に加担していないか。
名のある者の私生活を覗き見し、その是非を大衆が論じる――そんな習慣が、令和の報道文化であってよいはずがない。 #事業 #ビジネス #ニュース
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