破産は滑稽で、かつ極めて真剣な制度である――法的倒産処理の実務と論理構造

破産と聞けば、大半の国民は「人生の終わり」あるいは「経済的自殺」の如きイメージを抱くようだが、実際のところ、破産手続とは終焉ではなく、一種の制度的整理である。制度的整理とはすなわち、債務者の経済的再生を視野に入れつつ、その過程で関係当事者間の利害を法的に調整することで、秩序ある清算を実現せしめる営みである。

馬鹿らしいが現実的な話として、破産者の生活保護的再出発を制度的に支援するというこの破産法の理念は、時に過保護とも揶揄される一方で、我が国の市場経済構造を下支えする極めて冷徹かつ合理的な仕組みでもある。要するに、破産とは“悪”ではなく“手続”なのである。

ではまず、破産法における最初の登場人物――破産手続開始の申立権者について論ずる。破産法第15条以下によれば、破産手続開始の申立ては債務者本人(すなわち自己破産)または債権者(すなわち債権者破産)によって行うことができる。現実の統計上、圧倒的多数を占めるのは自己破産であり、実に全体の9割以上が「自分から破産したい」と裁判所の門を叩いているのが現実だ。馬鹿正直なようだが、制度の建付けとしてはむしろ正しい。

この「破産したい」なる意思表示は、破産法上「支払不能」(第2条11号)の認定と密接不可分の関係にある。支払不能とは、債務者が弁済期にある債務の履行を一般的かつ継続的に行えない状態であり、俗にいう“自転車操業”のハンドルが折れた瞬間である。

では、申立てが受理され、裁判所によって破産手続開始決定が下された後、何が起こるのか。ここからが破産法の真骨頂――破産財団の形成と破産管財人の選任という、まさに“法的な腑分け”の儀式が始まる。

破産財団とは、破産手続開始時における債務者の総財産(ただし破産法上の差押禁止財産を除く)を一括的に管理・処分する対象となる資産の集合体である。この財団を支配するのが破産管財人という、まことに権限強大な存在である。破産管財人は、裁判所によって選任され、債権者の利益保護と財団の適正管理を二本柱としつつ、債務者の財産を現金化し、配当可能財源を確保する責務を負う。俗に言えば、“財産の番犬”である。

とはいえ、この管財人の報酬は財団から支払われるため、債務者に残された最後の百円玉さえ、文字通り“法の胃袋”に吸収されていく。これを制度的中立性の担保と見るか、制度的搾取と見るかは見解が分かれるところである。

さて、破産者が最終的に目指すのは何か。それは免責許可である。破産手続そのものが財産処理であるのに対し、免責手続は信用の回復であり、個人の経済的再生に向けた「国家からの赦免状」である。破産法第253条は、免責の効果を“債権の消滅”とは表現せず、“債務の履行責任の免除”と定義する。すなわち、借金が消えるわけではないが、支払義務は無効になるという、不思議な法的トリックである。

ただし、何でもかんでも免責されるわけではない。例えばギャンブル、浪費、詐欺的債務、帳簿の隠滅などについては免責不許可事由(第252条第1項)が列挙されており、「破産すれば何でもチャラ」と考えている輩には手痛い現実が待っている。

ここで、破産手続と免責手続の全体像を図表にしてみよう。

手続名称主体内容債務リセットの有無
破産手続破産管財人財産を整理して債権者に分配
免責手続債務者・裁判所借金の履行義務を帳消しに有(ただし例外あり)

このように、破産は「清算」と「赦免」のツーステップで構成されており、両者が一体となって初めて“破産の完成”と言えるのである。言い換えれば、免責なき破産は、ただの財産狩りにすぎない。

企業(法人)破産に至っては、さらに複雑怪奇な制度運用がなされている。法人の場合、免責という概念が存在しないため、破産手続終了をもって法人格が消滅する。清算=消滅、という極めてわかりやすい構造だが、連帯保証や代表者個人の債務負担が残る場合も多く、実際には“法人破産後の個人破産”というマトリョーシカ的破産連鎖も後を絶たない。

また、破産手続と比較されるべき制度として、民事再生手続(民事再生法)、会社更生手続(会社更生法)が存在するこれら民事再生手続および会社更生手続は、いずれも「倒産法体系」における兄弟分ではあるが、その目的と構造は破産手続とは明確に一線を画している。すなわち、破産が「死」による帳尻合わせならば、再生・更生は「延命措置」とも言うべき試みである。

民事再生手続は、主として中小規模の事業者や個人事業主の再建を志向した制度であり、債務者自らが主導権を握ったまま、事業の再生計画(再生計画案)を策定・遂行していく。これに対し、会社更生手続は、巨額の債務を抱えた大企業などに適用されることが多く、その進行は裁判所および選任された更生管財人の厳格な監督下で行われる。端的に言えば、民事再生が「債務者主導型の再建劇場」であるのに対し、会社更生は「裁判所演出による強制再建オペラ」である。

とはいえ、いずれも破産とは異なり、“債務の全額弁済”を前提とはしない。多くの場合、債務の元本を大幅に圧縮し、分割払いによって再建を図る。この点で、債権者からすれば「貸した金の何割かを捨てさせられる」制度でもあり、再建の名を借りた“債権者いじめ”と揶揄されることも少なくない。

さらに近年では、私的整理手続――すなわち法的倒産手続を介さず、金融機関などとの合意によって負債整理を行う方法――も一部では流行している。代表例としては、事業再生ADRや中小企業再生支援協議会による支援スキームなどが挙げられる。これらは表面上“倒産”とは見なされないが、実態としては債務免除やリスケジュールが行われる点で、債権者の犠牲において債務者を延命させるという意味では、極めて倒産的である。

そして、これらあらゆる「倒産制度群」の背後には、日本の法文化に根差した“全体の秩序維持”という理念がある。個別の悲劇を制度に吸収し、全体の混乱を防ぐ。この構造をして、「制度的寛容」と評するむきもあれば、「制度的監視社会」と皮肉る者もいる。確かに、破産手続における財産開示義務や免責調査、債権者集会に至るまで、債務者は己の生活史を法廷の光に晒すことを強いられる。もはや経済的「懺悔室」とでも言うべき有様である。

また、破産者情報の官報掲載、信用情報機関への登録なども、社会的制裁の一環と見なされているが、これは破産制度が「救済と戒め」を同時に果たす構造であることを如実に示している。つまり、破産制度とは、国が用意した“経済的贖罪”の場であり、その舞台に立つ者には相応の覚悟と法的理解が求められるのである。

もっとも、そのような制度的重荷を背負う代償として、破産者は法的に清浄な市民として再出発する資格を得る。これをして、「再チャレンジ可能な社会」と美称することもできようが、他方で「自己責任を巧妙に棚上げする制度」との批判も根強い。結局のところ、破産制度とは“国家と個人との信頼関係”をいかに構築し直すかという、極めて政治的な問いに他ならない。

近年、生活困窮者や事業者の破産件数は増加傾向にあり、特にコロナ禍以降は「予期せぬ倒産」が日常風景と化しつつある。加えて、暗号資産取引や副業ブームの影響で、個人が多重債務に陥るケースも後を絶たない。破産制度は、今や特定の“失敗者”のための制度ではなく、全市民が人生のどこかで接触するかもしれぬ“社会の保険装置”としての色合いを強めている。

その意味で、破産とはもはや「他人事」ではなく、「制度に内蔵された運命」なのである。そしてそれは、ある日ふと、自分自身の足元に忍び寄ってくるかもしれない。だからこそ我々は、この馬鹿らしくも冷徹な制度について、せめて一度は、法の観点から真面目に向き合う必要があるのではなかろうか。

以上が、破産法という一見地味ながらも奥深い制度の全体像である。“破産は終わりではなく、国家主導のリスタート”――その意味を噛み締めつつ、今日もまたどこかで、静かに「再出発」の鐘が鳴っているのである。 #破産 #事業 #ビジネス

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