人は「金」と「時間」を同じ天秤に載せて量ろうとする。これほど愚かな企てが、かつてあっただろうか。「時は金なり」とは、確かに一見すると整然とした響きを持ち、すべての営みを効率の軛(くびき)に縛りつける呪文のように機能する。だが、その呪文が暗示する世界は、息苦しく、そして無惨である。金は人の欲望が生み出した幻想だ。人は価値を貨幣に換算し、貨幣の増減で生の成否を決しようとする。しかしそれは所詮、思考が生んだ幻影にすぎない。金の価値は思考の網にかかる蜘蛛の巣のようなものだ。すなわち、「金=思考」に過ぎない。
一方で「時間」はどうか。時間は我々が意図して生み出すものではなく、悠久の流れにあって我々を包むものだ。時間そのものに値札などつけようがない。むしろ、時間とは我々の価値観を映す鏡である。つまり「時=価値観」だ。時間をどう感じ、どう刻むかは、各人の内奥に潜む価値観に委ねられている。幼子にとっては母の胸でうたた寝する一瞬が永遠であり、老境にあっては短い昼寝が一生の慰めにもなる。ここには、貨幣の計算式では決して量れぬ尊厳がある。
人はなぜ「時間」と「金」を等号で結ぼうとするのか。それは恐らく、我々の思考が「効率」や「成果」を信仰するあまり、すべてを数字に還元しなければ不安で仕方がないからだ。金は思考の仮面である。思考の網で世界を捕らえようとするとき、金はいつも手近な道具として選ばれる。金で物を買い、金で労働を買い、金で娯楽を買う。それらの交換を円滑にするための仕組みだ。しかし、「金=思考」という構造を忘れたとき、人は金を思考そのものと混同し、金の有無に振り回される。「金はすべてだ」と口にする者は、すでに金に思考を侵され、心を見失った状態にある。
では、「時」はどうか。時間は貨幣のように交換することができない。だからこそ、時間は各人の価値観に照らしてこそ輝きを持つ。金は人間の思考の外套だが、時間は人間の魂の呼吸である。急ぐ者には時間は敵となり、耽る者には友となる。時は価値観を映す湖であり、誰のものでもない。その鏡面に映るのは、我々自身の心の風景だ。時は売買の対象ではなく、評価の尺度でもない。むしろ時は、我々がどれほど己の価値観に忠実であれるかを試す舞台なのだ。
この視点に立てば、「時は金なり」という格言は、まことに浅薄なものに見える。時間と金を同一視するのは、価値観と妄想を取り違える行為である。金は思考が編んだ幻想の貨幣であり、時は価値観が織り成す生の糸である。両者を同列に論じることは、精神の怠惰にほかならない。時を金に換算しようとする瞬間、我々は自らの心の重さを測る秤を失う。生を彩る思い出も、優しい沈黙も、決して札束にはならない。金では買えぬ孤独の深さを、金では測れぬ希望の光を、我々はいつしか忘れてしまうのだ。
むろん金は重要だ。飢えや寒さに抗う術として、人は金を要する。しかしそれは、心の平安を支える「手段」であって「目的」ではない。金は思考の領域に留めておけばよい。だが、時は心の深淵と結びついている。時を浪費するとは、己の価値観を蔑ろにすることであり、心の礎を腐らせることだ。そうした腐敗は、貨幣の匂いでは覆い隠せない。
金は思考の召使い、時は価値観の神殿。――この対比を忘れたとき、人は心を見失い、金の奴隷となる。思考は金で満たせるが、価値観は決して金では満たせない。人生の価値は金勘定の外にあり、ただ心の鏡にのみ映る。ゆえに我々は、この問いを絶えず胸に抱いて生きていかねばならない。金をどう扱うか。時をどう生きるか。心をどう守るか。問いに明確な答えはない。だが、その問いを抱くことこそ、唯一我々に許された自由であり、尊厳なのだ。(文=藤沢敬済)
コメント