残された時間は多くない。
2021年2月、石川県野々市市の布水中学校で、当時中学1年生の女子生徒が自ら命を絶った。第三者委員会はその後、29件のいじめ行為を認定した。
当初、学校側は市に対し「いじめは1件」と報告していた。第三者委員会が設置され、調査が続けられた末に「29件認定」という結論に至った。
事件から3年4か月が経過した。
遺族がいま求めているのは、賠償の増額でも、処罰の強化でもない。
直接の謝罪である。
保護者はこれまでの取材に対し、こう語っている。
「ここまで3年4か月。本当に長い。娘は、冗談を言い、笑わせようとおどけたり、楽しい場所を作り続けようとしてくれている子でした」
当時の生徒たちは、いま高校3年生となり、卒業を迎える時期にある。区切りの季節が近づくほど、謝罪の機会は遠のく。
制度上、謝罪は義務ではない。法的な整理が進めば、形式上は区切りを迎える。だが、教育とは何か。
29件のいじめが認定された事実は消えない。その中で、遺族は「謝罪だけでいい」と訴えている。
学校が仲介し、謝罪の場を整えることはできないのか。
筆者は思う。法の枠組みの中で責任を整理することと、人として向き合うことは同じではない。謝罪は命を戻さない。だが、向き合わないまま時間だけが過ぎることは、教育の責任を果たしたと言えるのだろうか。
いま問われているのは、責任の所在だけではない。
卒業という区切りの前に、直接謝罪の場を設けることはできないのか。
この問いを、私たちはどう受け止めるべきだろうか。
曇りがち

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