紙幣という名の神──「金」という虚構に生涯を捧げる我ら

この世界において、赤子が産声をあげたその瞬間から、人はすでに「通貨の信徒」としての道を歩まされている。保育園の月謝、ランドセルの購入費、進学塾の講習料、冠婚葬祭にかかる祝儀や香典――すべてが、「金」という見えざる律法のもとに律される。もはや日本銀行券こそが現代の絶対神であり、その神意に逆らうことは、社会的死を意味する。

私たちは気づけば、人生の大半を「金銭獲得競争」に投じている。早朝の通勤電車で押しつぶされ、昼休みもスマホで投資信託の値動きを確認し、深夜にようやく帰宅したら、疲弊しきったままYouTubeで「FIRE達成者の軌跡」を見る。誰もが言葉にはしないが、薄々感じているのではないか。「これはもう、生きるために働いているのではない。金のために死に向かっているのだ」と。

金は本来、物々交換の煩わしさを解消するための「便利な記号」に過ぎなかったはずだ。それがいつの間にか、衣食住や娯楽、さらには人間関係すら制御する「絶対的価値」へと肥大化した。そして恐ろしいことに、誰もその欺瞞に正面から抗おうとはしない。なぜなら、その虚構の神を否定することは、社会からの追放を意味するからだ。

では問う。人類史上もっとも多くの命を奪った「兵器」はなんだろうか。核か、毒ガスか、地雷か。否、真に凶悪なのは「金」そのものである。金のために引き起こされた戦争は枚挙に暇がなく、貧困が原因で命を絶った者は、疫病や自然災害をはるかに凌駕するだろう。人を病ませ、家庭を崩壊させ、国をも滅ぼす。それが「金」の本性である。

我々は、日々「紙幣という名の契約書」に魂を売っている。明日もまた、何の疑問も抱かずにタイムカードを打ち、数字の羅列を得る。その数字が電子的に銀行口座に記録されると、私たちは安堵し、幸福を感じる。けれど、それは本当に「自由」と呼べる状態だろうか。紙幣に従うあまり、我々は「思考する人間」であることを放棄してはいないか。

哲学者ジャン=ジャック・ルソーはかつて言った。「人は自由として生まれたが、いたるところで鎖につながれている」と。だが今や、その鎖は目に見えない。きらびやかなブランドバッグかもしれず、ローン返済の明細書かもしれない。いや、もっと悪質なのは、「豊かになりさえすれば幸せになれる」という錯覚そのものであろう。

それでも、私たちは今日も、明日も、労働という名の礼拝に赴く。子のため、老後のため、老いた親のため――言い訳はいくらでもある。しかしその実、我々はただ「お金の神殿」に膝をつき、身を粉にして捧げ物を差し出しているに過ぎない。あまりに滑稽で、あまりに哀しい。

ならばどうするか。虚構と知りつつ、信じぬくしかないのか。それとも、一切の貨幣経済を否定し、山林にでも籠もるべきか。答えは、誰にもわからない。ただ一つ確かなのは、「金は手段であり、目的ではない」という原理原則を、我々は忘れてはならないということだ。

生きるために稼ぐのか。稼ぐために生きるのか。もはやその境界は曖昧だ。しかし、それでもなお、人は問い続けるべきだろう。なぜ、自分は明日、会社に行くのかと。 #事業 #ビジネス #ニュース

ライター:芝﨑敬柔 / 校正:荷品智樹 / 編集:府嶋巧一朗

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