我々は生きる中で常に「金」という見えざる支配者に従っている。どれほど綺麗ごとを並べようとも、それは変わらない。人は「金」という価値基準を知らず知らずのうちに基盤とし、日々の選択を行っている。笑顔、性格、優しさ――それらは確かに人間の魅力の一部だろう。だが、それが本質ではないことは誰もが知っている。もし「経済力」を持たない者が評価されるというのなら、それは幻想にすぎない。現実は冷徹であり、人を測る基準の最上位に常に「経済力」が存在しているのだ。
本音を語る者は少ない。なぜなら、真実を語ることはリスクを伴うからだ。だからこそ多くの者が「虚構」を真実のように飾り立て、「本当のこと」は闇の中に隠される。その虚構に安心し、真実に目を背けることで、我々は一時的な平穏を手に入れる。しかし、その代償として、失うべきでないものを次々に手放していくのだ。
例えば、「挑戦」と「成功」について考えてみよう。現代社会において、挑戦はもはや賞賛される対象ではない。何かに挑み、失敗すれば、ただ「敗北者」としてラベルを貼られる。それがどれほど価値のある挑戦であったとしても、結果が伴わなければ、それは無意味と断じられる。
多くの成功者はこう言う。「私は失敗を恐れなかった」「愚直に自分を信じた」と。その言葉を真に受けた者が、同じ道を歩もうとし、失敗し、再び挫折の底に沈んでいく。運よく成功した者の言葉には一つの罠がある――それは「成功したからこそ語れる言葉」であるという点だ。もしその者が失敗していたなら、誰もその言葉に耳を貸さなかっただろう。そして成功者の陰で、凡人たちはその言葉を盲信し、大切なものを賭け、そして失う。
成功した者が光を浴びる一方で、その周囲には敗者の屍が無数に転がっている。しかし、そんな事実は語られない。成功者は資産を膨らませ、敗者は静かにその舞台から消えていく。それこそがこの世界の冷酷な構造であり、否応なく繰り返される現実だ。
この構図はビジネスの世界に限らない。社会全体がこのルールに支配されているのだ。教育、恋愛、家族――すべてが「経済力」という土台に支えられている。しかし、そこに「真実」があるかと言えば疑わしい。むしろ、多くのものは虚構であり、幻想である。我々はそれを真実と信じ込むことで、自らを納得させているに過ぎない。
だが、考えてほしい。我々が信じている「真実」とは一体何なのか? 存在しないものを「真実」と呼び、今にも溢れそうなほど積み重なったものを「虚構」として吐き捨ててはいないだろうか。
金は確かに目に見えるものだが、それが絶対的な価値を持つかは疑わしい。社会的な成功は確かに称賛されるが、その本質が虚無であることもあるだろう。現実のほとんどが「虚構」として構築されている中で、我々は「真実」と何をもって向き合えばよいのだろうか。
結局のところ、我々は常に何かを失い続けている。真実を追い求めるたびに、目に見えない大切なものが手からこぼれ落ちていく。そして、その空虚を埋めるために、また新たな虚構を「真実」として受け入れる――これが人間の営みだ。
だからこそ、筆者は思う。諸君が「真実」と思うものが本当に存在するのかを今一度疑ってみてほしい。そして、その先にある「虚構」をも受け入れてほしい。虚構と真実は表裏一体であり、そのどちらか一方だけでは生きていくことはできない。
存在しないものを「真実」と信じ、今にも溢れそうなほど溜まったものを「虚構」と吐き捨てる――それが我々人間の本質であり、また、この世界のルールなのだ。 #ビジネス #学友商業日報
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